February 27, 2011

チャプレン(Chaplain)をなさっている方に
お会いする機会があった

チャプレンとは
日本は無宗教がほとんどなためか需要もなく
全国で30人程度しかいないそうなのだけれど
アメリカの病院などで宗教的介護をする仕事だ
夜中に泣いている患者さんがいたら
呼ばれるのはドクターではなくチャプレン
寂しさや不安な患者さんに応えるのもチャプレン
霊安室で死を受け入れられない遺族の方に
ずっとついているのもチャプレン
死への怒りをぶつけられるのもチャプレンの仕事だそう

でもチャプレンの方は
霊安室はなにもなくとても落ち着く、とおっしゃっていた
人間「怒り」というものはそう長くは続かないらしい
それをきちんとみれるのもとてもいいことだ、と

そして、そこにいたドクターの方が
人が死んでしまうのはたいがい僕たちドクターのせいだ、と
ドクターである彼自身がおっしゃっていて
それが色々な意味を含んでいてとても心洗われた

余命宣告をしなければならない場合
日本やメキシコでは、家族の方にまず宣告し
家族が実際の患者さんに伝えるかどうかを決める
でもアメリカでそれをやってしまうと大問題になる
アメリカでは直接患者さんに余命宣告をする
そして死にゆく本人がちゃんと死の準備をする、と

私は死ぬことが怖いという以前に
まだ死なせてもらえない、という感覚が
とても強い気がする
生かせてもらっていてまだ死なせてもらえない
死にたいという意味では決してないけれど
まだ、もういいよいっていいよ、
と言ってもらえないんだな、という感じ
だから人生はいつだってとても厳しいし
好きなようにはやっぱり生きれない
でもだからこそ幸せもとても感じられる

生きることに心大きくなれる
素敵な出逢いと時間でした

February 13, 2011

St. Valentine's Day

世はバレンタイン

ここアメリカは日本とは逆で
男性が女性に想いを伝える日
アジアのお隣韓国では
アメリカ同様に男性が女性に想いを伝える日
プラス日本と同じホワイトデーもあり
ホワイトデーには
女性が男性にお返しするらしい 

私は基本的に
何かひとつのことが
飛び抜けてできる人が好きではなく
しゃべらない・動かない・目立たない
の三拍子揃ったような人が好きで
言うなれば成績オール3のような人
5があったり1があったりしない
オール3はなかなか難しいはず
生活力のある頭の良い人ではなくて
地味な学校の勉強がちゃんとできるような人

そういう人が大多数だよと
よく言われるのだけれど

なにも持っていないことを
持っているような人が
私はとても魅力的で
ふたりでひとつになれるような
ひとりでふたつになれるような
好きな人と自分自身が
一緒に存在する時のバランスが
人間はとても大事だと思う

チョコレートを超えて
色々なものを結べるような
皆さん良いバレンタインデーを*


Would you be my Valentine?

February 10, 2011

CSO

シカゴ交響楽団の来日公演をちゃんと聴こうと思ったら、
4万円以上してしまうらしい。
今私は、日本円にして約千円で、
それを毎日聴くことのできる環境にいながら、
4年間でたったの2回しか、聴きに行ったことがない。
演奏会は価値では計れないから、
例え行かなくても、もったいないという気持ちとは違うけれど、
どうしても行かない。というか、行けないのだ。
気持ちや足が、どうしてもそこに向かない。
シカゴ響の演奏会に限らず、どんな演奏会でもそう。
私はクラシック音楽は嫌いなんです、好きじゃないんです、
と言ってしまえばとても簡単なのだけれど、
私がそれ自体を言ってしまうのは、
それはそれでとてもおかしいこと。
でもなぜだかどうしても私は、
クラシック音楽とはいつも距離をおいていたい。

生の良い音楽を聴くのはとてもいいことで、
他人の演奏を聴くことも、自分の演奏を聴くことも、
音楽をしていく上ではとてもためになることなので、
クラシック音楽を「聴かないこと」は、
ちっともかっこいいことではない、とわかっている。
でも私の中ではやっぱり、
クラシック音楽は自分から求めて聴きに行ったりするものではない。
それらを自ら求めて聴くと、
聴くためだけに足を運ぶと、私はとても苦しくなる。
やっぱり好きではないのだ。色々なことが色々な意味で。

でも今夜は久々に、ヴァディム・レーピンの、
チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を聴きにいく。
もちろん、シカゴ交響楽団との。

少しだけ良い無理もする。
矛盾もする。そんな日もたまにはあり。


*シカゴ交響楽団本拠地
Symphony Hall入口の写真

February 08, 2011

ZUCCaのファッションデザイナーである小野塚秋良さんが、
こんなことをおっしゃっていた。

「ぼくは自分の作ったものを形として世に残したいって思いがないんです。いまやってる仕事が完成すると、それを残したいという気持ちよりは、風のようにふわりと世の中を漂っていってくれればいいやと思うんです。理科室に残る標本みたいに、ずっと残っていく服というのは不気味だという気持ちがあるんですね。」

その執着のなさが素敵だな、と。
良い意味で欲のない人、頑張らないという意味ではない、
欲のない人は本当に魅力的だと思う。
本当の意味で自分の納得したものを創っていたり、納得のいく仕事をしていたら、何かを残してやろう、なんていう気持ちはその中でどこかにいってしまうのかもしれない。
それが例えモノであろうと、自身の名前であろうと、
世の中に「自分」を残して何になるんだ、ということをわかっていると、生き方や世界はだいぶ変わってくる気がする。

私はZUCCaの服が元々好きで良く着ているのだけれど、
それを好きでい続けたい場合、どんな気持ちの人間が創っているのかを知ることが逆効果になることもあるので、そういうことはあまり知ろうとしないようにしていたけれど、もう少しだけZUCCaの服を好きになった瞬間だった。


*写真はシカゴ大学のあるハイドパーク
アメリカではどうしてもモダンすぎる私は
ヨーロッパな雰囲気を求めにふらっと散策

February 02, 2011

Blizzard 2011

ここ二日間
シカゴは歴史的な暴風雪に見舞われ
雪が滝のように降り続いた
元々"風の強い街"と呼ばれており
また寒さや雪には慣れているはずのこの街でさえ
街中の交通手段はストップ
街中の学校はお休み
テレビは永遠にそのニュース
閉鎖したメインの高速道路もこんな状態

でもなんだか楽しくて
周りは皆
真夏の台風にはしゃぐ
子供のようだったりする

急にできた時間
急にできたお休み
エクストラで余分な
あるはずでなかった向こう側の時間を
どう過ごすか
どう過ごせるか

"待つ"時間
"待てること"が
人間にとっては
本当に大事だなぁと
身動きのとれない銀世界の中で思う

一見受動的だけれど
"待つ"ことは実はとても能動的
そこからすべてのものは生まれていて
そこがすべての始まりな気がする