February 02, 2015

Jury

先日、コンクールの審査員を務めさせて頂きました

日本でいう全日本学生音楽コンクールのアメリカ版
Junior/Intermediate/Seniorと
すべての弦楽器部門を審査
  
決して長いとは言えない審査時間内に
私もフィードバックを書き書き
拙いアドバイスながら
何か彼/彼女らの今後の役に立つようなことを
伝えてあげられたらいいなぁと思いながら

緊張で震えていたり
もうステージに出てきた瞬間から堂々としていたり
御両親や先生に付き添われ見守られながら
皆それぞれに一生懸命演奏していて
様々なことを感じました

ちょっと話はそれてしまうけれど
私は人が頑張っているところや輝いている瞬間を見るのが
元々あまり好きではなくて
その人が自分にとって大事な人であればあるほど
そういう姿を見ないように生きてきたように思う
薄情ながら"人が頑張っている姿をみて感動"など程遠く
感動はそういうレベルではやってこない
自分の場合もまた同じで
相手を大事に思えば思うほど
自分が頑張っている姿は見て欲しくない

理由は漠然とだけれどきっと
そういうその人が一番輝いている瞬間を見たからといって
その人への自分の気持ちの重みが
何一つ変わらないからだと思う
それによってもっと好きになったり
逆に嫌いになったりすることはないからだ
大概の場合私は、誰かに初めて会った時
その人が生まれ持った
あえて言葉で言うならば魂のようなものと
その人がその後生きていく中で身につけ手に入れてきた
地位や名誉や職業、技術などが
はっきりと分けてみえてしまうのだと思う
そして後者にはあまり興味がなくて
それによってその人への目が変わることはない
けれどその後者こそが
自分が努力し頑張って手に入れたものであって
それを評価して欲しいと感じる人もきっと多いだろう
そういう人たちは
そういうことに価値を感じる人と関わればいいのだから
世の中はうまくできているなぁと思う

同じく自分の場合も理由もきっとそうで
頑張っている瞬間を見てほしくないと願うのは
それによって私への気持ちの重さを
これっぽっちも変えてほしくないからだ
それは私自身とは関係のないものだから

ステージから降りた後
又は会社や仕事が終わり家に帰ってきた後
この人一体何ができるんだろう?
そう笑ってしまうくらいに何もまとっていない 
何者でもない相手への気持ちだけを育てたいし
育ててもらいたいと思う
どんな人であっても
大事な人の前では
お互いがすべてを取っ払ったただの人間でいたい
そういう想いかもしれない

実際、私は3歳からずっと
音楽に関わり生かせてもらっていて
今までも数え切れないほど
舞台に立たせて頂いているけれど
父は私の演奏をコンサートで聴いたことは一度もない
自宅での練習さえきちんと聴いたことなどないだろう
このことはよく驚かれるのだけれど
この事実こそが私にとっての拠り所でもある
大事な人の大事なものには直には触れず
直接の応援を優先するのではなく
それが大事であればあるほど
遠くから見守るという愛情を無言で教えられている気がする

今回のコンクールで
まだ若い未来の音楽家たちが一生懸命に
目に見えない音楽というもので戦う姿をみて
どうか彼/彼女らの大事な人たちが
彼/彼女ら自身から音楽を切り離して考え
無条件で接してくれる人たちがいつもそばにいるといいなぁと
そういうことを改めて思う