November 29, 2010

一週間程のサンクスギビング休暇を使って
実家のあるサンフランシスコへ久々に帰省

母親がご飯を作る包丁とまな板の音
どんなに遅くても父親という男性が
最後に家に帰ってくるという安心感
そういうひとつひとつがきっと子供には
体をつくる成分としてとても必要で
そういうことの積み重ねがきっと
言葉を超えて愛になって
体に染み込んでいくんだな、と思う
そうして私も愛されて育ってきたんだな、と
改めて感じる

小学校の卒業文集などに
将来はヴァイオリニストになりたいです、
などと書くような子供ではなかったので
将来なりたいものは
小さい時から変わらずいつも
サンタクロースか専業主婦
笑い話のようだけれど
今考えてみるとこの二つは
本当は限りなく近いものなのかもしれない 

自分にしか奏でられない音や
私の演奏が聴きたいと言ってもらえること
それを必要としてくれる人がいるとしたら
それはとても幸せなことだけれど
ヴァイオリンをただ"弾く"ことができる人は
世の中にはいくらでもいる

主婦は誰もがなれるもので
一般的でごく"普通"に生きていたら
もしくは自分になにもなかったら
主婦になるしかない、というようなことを
皆口を揃えて言うけれど 
私は違うと思

主婦は誰もがなれるものではない
むしろ一番
誰もがなれないものなのではないだろうか

愛する誰かがいて
その人のために
ご飯を作れること掃除をすること洗濯をすること
その人の子供を産めること
その人をお父さんにしてあげられること
その人が必要としてくれている以上
その人のためになにかをすることができるのは
それはもう世の中で私一人しかいない
それは私にしかできない仕事であり
私にしかできない職業で
とても幸せな選ばれたものだと思う
どんな地位や名誉や光を浴びる仕事も
それを超えることはできない
そんなものは人生の喜びの
なんの足しにもならないと思う

やっぱり私の目指すところは
今も変わらず
サンタクロースか専業主婦

これで幸せ
これが幸せ

November 15, 2010

The Art Institute of Chicago

自宅から徒歩5分の距離にある
たまに立ち寄るシカゴ美術館
フラッシュなしならば
基本的になんでも撮影可能なので
カメラを片手に気分転換がてらぶらぶらと歩く

絵画でも音楽でもそうだけれど
作者が亡くなってから
評価されるようになった作品の多さ
また自己評価と他人の評価のズレ 

私はたいがい
本番での自身の演奏に対する
自分が思う出来の良さと
聴く側からの評価が一致しない 

自分がよかったと思っている時は
いつだってそこまでよくはなく
自分が全然ダメだったなと思っている時は
いつだってそこまでダメじゃなかったりする 
どんな世界でも同じかもしれない

なんとかそこを繋ぎ合わせようと
頑張っていたけれど、本当は
観客と自身の評価が一致しないことが
一致しないことこそが
芸術らしい

一致してしまっては
芸術ではなく商業になってしまうらしい

不一致こそが深く一致する、
ということなのかな

November 11, 2010

11.11.

今日は母親の誕生日

今ではもうすっかり友達のような親子になってしまって
なんかおもしろいことないのー?と
暇つぶしに電話をしてくるような母で笑
離れていても、夜な夜なガールズトークで
盛り上がったりしているのだけれど笑

ヴァイオリンの勉強の為ドイツに渡った時、
小6から高1まで、という思春期真っ直中に
敷居もない一間の家に母娘二人で暮らしていた

子供にとって親はいつも絶対的な存在で、
それ故に、親の間違いや頼りない姿
どこか感情的な人間らしい姿は見たくない、
と思ってしまう
少なくとも私は小さい頃、
親のそういう姿は、なるべく見たくなかった気がする

けれど外国で密接に生きていて、
自分が成長していく中で、
親のそういう面を見なければならないことも
たくさんあった
それがその頃の私にはとてもきつかった

けれど、
あぁ、母も人間なんだな、と気付いてから
私はとても楽になった
今まで母は私にとって絶対的で間違いのない存在だったけれど、
母もただの少女であり女の人であり妻であり母親であり
一人の人間なんだな、と気付いた
だから間違いも自分と違うことも、もちろんある
自分が長女だろうか次女だろうが長男だろうが次男だろうが、
いつになってもその子供がその年になることは
母親にとってすべてが初めての体験で、 
初めてのお母さんなんだな、と思う
そう気付いてから、
怒られることも、ケンカになることも、
なにかをしなさい、と言われることも
もうなくなった
人間と人間が一緒に暮らしている、
人間同士が同じ家族の輪の中で生きている、
という形になった気がする

だから、考え方やしている哲学も違う
でも、あぁ、この人はこういう風に考えるんだな、
でも私はこう思うよ、と
家族の輪の中でちゃんと説明できる
そういう形が出来上がっている
従う必要も合わせる必要も影響を受ける必要も、
本当の意味では、ない 

もちろんいつまでたっても子供にとって親は親で、
また親にとっても、
子供が40歳になろうが50歳になろうが、
子供は子供のままなのだろうし、
私も、いつまでも感謝そして尊敬はできるけれど、
精神的にはもう彼らをずっとずっと超えていかなければ
いけないんだな、と思う

小さい頃、今以上にとにかく移動が多く、
5日おきくらいに違う国を移動していたこともあった
でもそのどこへ行っても、
すべてを手話(ボディランゲージ)で通す母

ある時はロシアに向かう飛行機の中、
小さな飛行機に乗客が3人しかいなくて、
心細すぎて私が泣いていたら、
"マイケル・ジャクソンなんていつもこんなんだよ"と
私を励ますために言い切った母
それはちょっと意味が違う気がするけれど
いつもこんな調子の母

今考えると、
母の方がよっぽど大変だったんじゃないかな、と思う
いつだって、支えられています
ありがとう
父と共に素敵に年を重ねて下さい 

お誕生日おめでとう

November 05, 2010

senior seminar

週に一度様々なゲストを迎えて
将来や人生についてのお話を聞く、という授業がある
音楽をしながらどのように"生きて"いくのか、
ということが主な内容なのだけれど、
いつも感じるのは、
皆ステージに立ちたいんだな、ということ
光を浴びたい、有名になりたい、名を残したい、
と思う人間が世の中にはこんなにいるんだな、と

私は自分が有名になることには
全く興味がなく、幸せを感じない
そんなことは私の魂がちっとも喜ばない 

それでもこういう職業や人生を選んで生きていく以上
嫌でも自分を知ってもらわなければならない時や
名前を売らなければならない時
アピールしなければ繋がっていかない時
自分の作品や芸術を売らなければならない時もある 
また、自分の意図しない場所で
名前だけが勝手に独り歩きすることもある 

だからこういう自分単体の気持ちと
商業的なことをちゃんと交じり合わせるのは
時々とても大変で、
傲慢に聞こえてしまったりするんだけれど、

基本的に私は、
自分が知らない人が自分を知っている、
ということはとても怖いことだと思う
そして、有名になることは
限りなく寂しくて、孤独だ
よく、有名になってから孤独が剥き出しになり
こんなつもりじゃなかった、というような
ことを言う人がいるけれど、
そんなのは有名になる前から想像がつくはず

大事なのは、その先にあるイマジネーションと
自分の幸せがなんなのか、
自分が本当にほしいものがなにかを
明確に自分がわかっていること
自分のことをちゃんと知っていることかな、と思う

例えば私の幸せは、
好きな人と手をつないで街を歩けることだとか
色々な場所を飛び回らずに一っ所に定住すること
毎日毎日同じ日々の繰り返しができること
元の家族ではなく、
自分の先に家族を持つことができ
とにかく自分が思う"普通"ができること
それだけ
それ以上でもそれ以下でもない

だからなにをするにも
目の前になにかがやってきたら
自分の幸せと照らし合わせて
自分の幸せの心の声に耳を傾けて
こっちだな、こうだな、という風に
生きている
その自分の幸せのベースが
とてもはっきりしているので
あまり迷わないし、後悔もない

毎週、様々な人生を聞いて
色々な生き方があるな、と思う
一週間の終わりにあるこの授業が、
週の中で少しずつズレてしまった自分を
またちゃんと取り戻す
とても好きな時間だったりする

November 03, 2010



座右の銘などない
また、夢だの希望だの頑張るだの、
そういう類いの言葉が
私はあまり好きではないので、
"夢に向かって頑張る"とか、
そういう言葉にはちっとも動かされない

だけれど、
たまに立ち止まって開く本がある
水泳の北島康介選手を支えた
平井伯昌コーチの言葉だ

「康介には才能がある。だからその才能を努力して育て、成長させ、咲かせないといけない。才能のある者は、ずっとずっとずっと努力していかないといけない。ずーっと努力することは辛い。才能があるってことは、とてつもなくきついところまでいかなきゃならないってことだ。」

才能がある人というのは、
頑張らなくてもできる、
そして羨ましがられる、
というイメージはとても間違っていて、
本当はとてつもなくきつい場所に
行かなければいけなく、
そしてそこへいっている人。

スポーツ選手は、
タイムや記録などで
目に見えて進歩や退化が日々わかってしまう
反対に芸術家は、
自分が今日どこにいるのか、
進歩しようが退化しようが
日々、目には何も見えない
目に見えないものを追い続ける苦しさと、
目に見えてしまうものを追い続ける苦しさは、
きっと全然別物なのだろうけれど、
たまに立ち止まってこの言葉を刻む

人間皆その人だけに特別に与えられた才能が
あると思うのだけれど、
ほとんどの人間はそれに気付かずに
人生を終えてしまう気がする
だから、もしも私が
少しでもなにかを与えられているとしたら、
それがどんなことであれ
それに気付き、努力し続け、
広い意味でのなにかを
 世の中に返していかなければいけないな、と思う

11月に突入、残り2ヶ月の2010年。
気持ちを新たに。


*写真はSymphony Hallでのリハーサル風景