February 10, 2011

CSO

シカゴ交響楽団の来日公演をちゃんと聴こうと思ったら、
4万円以上してしまうらしい。
今私は、日本円にして約千円で、
それを毎日聴くことのできる環境にいながら、
4年間でたったの2回しか、聴きに行ったことがない。
演奏会は価値では計れないから、
例え行かなくても、もったいないという気持ちとは違うけれど、
どうしても行かない。というか、行けないのだ。
気持ちや足が、どうしてもそこに向かない。
シカゴ響の演奏会に限らず、どんな演奏会でもそう。
私はクラシック音楽は嫌いなんです、好きじゃないんです、
と言ってしまえばとても簡単なのだけれど、
私がそれ自体を言ってしまうのは、
それはそれでとてもおかしいこと。
でもなぜだかどうしても私は、
クラシック音楽とはいつも距離をおいていたい。

生の良い音楽を聴くのはとてもいいことで、
他人の演奏を聴くことも、自分の演奏を聴くことも、
音楽をしていく上ではとてもためになることなので、
クラシック音楽を「聴かないこと」は、
ちっともかっこいいことではない、とわかっている。
でも私の中ではやっぱり、
クラシック音楽は自分から求めて聴きに行ったりするものではない。
それらを自ら求めて聴くと、
聴くためだけに足を運ぶと、私はとても苦しくなる。
やっぱり好きではないのだ。色々なことが色々な意味で。

でも今夜は久々に、ヴァディム・レーピンの、
チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を聴きにいく。
もちろん、シカゴ交響楽団との。

少しだけ良い無理もする。
矛盾もする。そんな日もたまにはあり。


*シカゴ交響楽団本拠地
Symphony Hall入口の写真

February 08, 2011

ZUCCaのファッションデザイナーである小野塚秋良さんが、
こんなことをおっしゃっていた。

「ぼくは自分の作ったものを形として世に残したいって思いがないんです。いまやってる仕事が完成すると、それを残したいという気持ちよりは、風のようにふわりと世の中を漂っていってくれればいいやと思うんです。理科室に残る標本みたいに、ずっと残っていく服というのは不気味だという気持ちがあるんですね。」

その執着のなさが素敵だな、と。
良い意味で欲のない人、頑張らないという意味ではない、
欲のない人は本当に魅力的だと思う。
本当の意味で自分の納得したものを創っていたり、納得のいく仕事をしていたら、何かを残してやろう、なんていう気持ちはその中でどこかにいってしまうのかもしれない。
それが例えモノであろうと、自身の名前であろうと、
世の中に「自分」を残して何になるんだ、ということをわかっていると、生き方や世界はだいぶ変わってくる気がする。

私はZUCCaの服が元々好きで良く着ているのだけれど、
それを好きでい続けたい場合、どんな気持ちの人間が創っているのかを知ることが逆効果になることもあるので、そういうことはあまり知ろうとしないようにしていたけれど、もう少しだけZUCCaの服を好きになった瞬間だった。


*写真はシカゴ大学のあるハイドパーク
アメリカではどうしてもモダンすぎる私は
ヨーロッパな雰囲気を求めにふらっと散策

February 02, 2011

Blizzard 2011

ここ二日間
シカゴは歴史的な暴風雪に見舞われ
雪が滝のように降り続いた
元々"風の強い街"と呼ばれており
また寒さや雪には慣れているはずのこの街でさえ
街中の交通手段はストップ
街中の学校はお休み
テレビは永遠にそのニュース
閉鎖したメインの高速道路もこんな状態

でもなんだか楽しくて
周りは皆
真夏の台風にはしゃぐ
子供のようだったりする

急にできた時間
急にできたお休み
エクストラで余分な
あるはずでなかった向こう側の時間を
どう過ごすか
どう過ごせるか

"待つ"時間
"待てること"が
人間にとっては
本当に大事だなぁと
身動きのとれない銀世界の中で思う

一見受動的だけれど
"待つ"ことは実はとても能動的
そこからすべてのものは生まれていて
そこがすべての始まりな気がする

January 25, 2011


クラシック音楽には言語がない
正確に言うと
言語を超えている、なのかな 
だから地球上のどこへ行っても通じる
言語や人種や地位や名誉や
そういうものを超えて誰にでも伝わる、と
それが故に
世界共通語は音楽だ
と言う人がいるけれど
本当の世界共通語は
数学らしい

完全に右脳人間の私は
数学の答えがひとつしかない感じがもう
あぁ私絶対間違えてますごめんなさい、
と思ってしまい
数字を見るだけで腰がひけてしまう笑
でも
世界共通語は音楽、と言われるより
世界共通語は数学です、と言われるほうが
妙に納得する
わかりやすい、なんて思ってしまう

答えがひとつ、ということ
答えが人の数だけある、ということ
どちらが難しいかは
もうきっと問題じゃない

January 22, 2011


休み明け無事極寒のシカゴに戻り
新たなセメスターの始まり
久々の自分の部屋
天井が高い
また一気にすべてが始まっていくことも
また急に独りになることにも
だいぶ慣れた気がする

久々に音楽関係の友人たちに会い
いつも不思議に思うのは
自分が音楽をしているのに
音楽関連の持ち物を持っている人が
とても多いということ 

自分がヴァイオリンを弾くのに
ヴァイオリンのキーホルダーだの
自身がピアニストなのに
ト音記号のモチーフのアクセサリーだの
そういう人が多い 

ずっとサッカーをやってきた人が
携帯電話にサッカーボールのストラップ
ずっとバスケットをやってきた人が
バスケット関連のものを身につけている 
バンドマンがギターのキーホルダー 

そういうことが私にはよくわからない
わかり易すぎてそのまますぎて
よくわからない

なにかをするということは
人間の心の中の
そういう場所にはないはず

やれ音楽が好きです
やれこの楽器が好きです
だからそれを身につけていますとか
このスポーツが好きで昔からずっとやってきました
だからそれ関連のものが好きで
身につけていますとか

なにかを好きということも
なにかをやるということも
そういうことじゃないと私は思う

同じく
そのなにかをしている人に
それに関連するものを贈ろうという感情も
私にはよくわからない

例えば野球選手に
バットやグローブのモチーフのものを贈っても
もらった相手はとても困るんじゃないかなと
思ってしまうから
そしてもしも優秀な野球選手が
バットのキーホルダーを付けていたら
なんてつまらない人間だろうと
思ってしまう気がする

この人からこれを取ったら
なにも残らない人間にだけは
ならないようにしたい
本当に好きで本当に真剣で
本当にひとつをやっているなら
もっと人間の中の大事な場所にあって
隠すべき感情があると思う


*写真は実家近くの
Stanford University内の教会
年中暑くあまり好きではないカリフォルニアで
唯一好きな場所