March 14, 2011

東日本大震災

こういうことを何度も繰り返してやっと
ご飯がとても美味しいとか
生きることに必死になり
生きていてよかった生きているだけでいいと
大切なものをそうやって知らなければならなくて
大切なことをそうやって思い出さなければならなくて
今この時はもう二度と戻らないんだと
そうやって手繰り寄せなければならないとしたら
自然から教えられなければならないとしたら
世界は人間は、なんて恵まれているんだろうと思う

いつだってこうして会えるのは話せるのは
もうこれが最後だと思って生きていて
いつそうなってももうなにもないことと
一緒に生きたい時間や話したいことが
これから先も山ほどあることは
違うようで限りなく似ている

人間は一度出逢ってしまった人とは
もう永遠に別れられないからこそ
いつだって別れてしまうことができる
お互いの気持ちだろうがどちらか一方の気持ちだろうが
いつもいつだって簡単に別れてしまうこともできる
だからこそ「別れない」ということがきっととても大切で
続けていくこと結ばれ続けること
今この世界で生き続けることにやっと意味があるんだろう


できることはなにもないけれど
できないということにちゃんと目を向ければ
できることはいつだって限りなくある

だからいかなければいけない、行かなければいけない
そして生かなければいけないと思う

以前三年間暮らした仙台の街、
その間そしてその後もずっと深く関わり続けて下さっている
友人御家族、友人知人の皆様、音楽関係者の皆様の無事、
一刻も早い復興、そして一人でも多くの命の救出を願います。
I pray for my sweet home Japan.
My heart and thought are with you all.
Please please stay strong.

March 03, 2011

ジョン・レノンが歌詞を書いて
ジョン・レノンが曲を作ってジョン・レノンが歌う
そこには何の嘘もないのに
クラシック音楽は
音の可能性は無限にある中で
作曲家がなぜこの次の音をミにしたのか
またその次の音になぜドを選んだのか
そういうこと一音一音の理由は知る由もなく
自分が会ったことも話したこともない人の曲
ましてや自分が生きていたこともない時代の曲を
自分なりの解釈で弾く
私はそういうクラシック音楽は
今まで嘘があるような気がしていた

でも、ある人がこんなことを話していた
シンガーソングライターなど
自分が演奏する曲を自分で作曲し始めたのは
ビートルズが出てきてからのことで
それ以前のエルビス・プレスリーの曲は
彼が作っているわけではない
でも彼が歌うことで
もうそれは"エルビスの曲"として聴かれ有名になる、と
それに、例えばベートーベンの交響曲など
彼が全部のパートの音を一人で同時に出せるわけではないから
元々どんな音が鳴るかは作曲家自身にも想像でしかない
マーラーも弾きながらどんどん曲を変えていった、と
音や楽器は全部ただの借りものであり道具であり
演奏家みんなが作曲家だということ

クラシック音楽にとても矛盾を感じていた私は
その新しい言葉にまた少し許された気がした

どんなことであれやっぱり人間は
どこかで信じているものしかできないし生きれない
私もやっぱり自分の信じていないことはできないし
信じているものしか伝えたくないし嘘は言えない

怖がらずにひも解いてみればいいことは
きっとこれからも生きていてたくさんある


さて、今週から寒いシカゴを飛び出し
束の間西海岸へ*
1ヶ月ぶりの雲の上、なにしようかなあ。

February 27, 2011

チャプレン(Chaplain)をなさっている方に
お会いする機会があった

チャプレンとは
日本は無宗教がほとんどなためか需要もなく
全国で30人程度しかいないそうなのだけれど
アメリカの病院などで宗教的介護をする仕事だ
夜中に泣いている患者さんがいたら
呼ばれるのはドクターではなくチャプレン
寂しさや不安な患者さんに応えるのもチャプレン
霊安室で死を受け入れられない遺族の方に
ずっとついているのもチャプレン
死への怒りをぶつけられるのもチャプレンの仕事だそう

でもチャプレンの方は
霊安室はなにもなくとても落ち着く、とおっしゃっていた
人間「怒り」というものはそう長くは続かないらしい
それをきちんとみれるのもとてもいいことだ、と

そして、そこにいたドクターの方が
人が死んでしまうのはたいがい僕たちドクターのせいだ、と
ドクターである彼自身がおっしゃっていて
それが色々な意味を含んでいてとても心洗われた

余命宣告をしなければならない場合
日本やメキシコでは、家族の方にまず宣告し
家族が実際の患者さんに伝えるかどうかを決める
でもアメリカでそれをやってしまうと大問題になる
アメリカでは直接患者さんに余命宣告をする
そして死にゆく本人がちゃんと死の準備をする、と

私は死ぬことが怖いという以前に
まだ死なせてもらえない、という感覚が
とても強い気がする
生かせてもらっていてまだ死なせてもらえない
死にたいという意味では決してないけれど
まだ、もういいよいっていいよ、
と言ってもらえないんだな、という感じ
だから人生はいつだってとても厳しいし
好きなようにはやっぱり生きれない
でもだからこそ幸せもとても感じられる

生きることに心大きくなれる
素敵な出逢いと時間でした

February 13, 2011

St. Valentine's Day

世はバレンタイン

ここアメリカは日本とは逆で
男性が女性に想いを伝える日
アジアのお隣韓国では
アメリカ同様に男性が女性に想いを伝える日
プラス日本と同じホワイトデーもあり
ホワイトデーには
女性が男性にお返しするらしい 

私は基本的に
何かひとつのことが
飛び抜けてできる人が好きではなく
しゃべらない・動かない・目立たない
の三拍子揃ったような人が好きで
言うなれば成績オール3のような人
5があったり1があったりしない
オール3はなかなか難しいはず
生活力のある頭の良い人ではなくて
地味な学校の勉強がちゃんとできるような人

そういう人が大多数だよと
よく言われるのだけれど

なにも持っていないことを
持っているような人が
私はとても魅力的で
ふたりでひとつになれるような
ひとりでふたつになれるような
好きな人と自分自身が
一緒に存在する時のバランスが
人間はとても大事だと思う

チョコレートを超えて
色々なものを結べるような
皆さん良いバレンタインデーを*


Would you be my Valentine?

February 10, 2011

CSO

シカゴ交響楽団の来日公演をちゃんと聴こうと思ったら、
4万円以上してしまうらしい。
今私は、日本円にして約千円で、
それを毎日聴くことのできる環境にいながら、
4年間でたったの2回しか、聴きに行ったことがない。
演奏会は価値では計れないから、
例え行かなくても、もったいないという気持ちとは違うけれど、
どうしても行かない。というか、行けないのだ。
気持ちや足が、どうしてもそこに向かない。
シカゴ響の演奏会に限らず、どんな演奏会でもそう。
私はクラシック音楽は嫌いなんです、好きじゃないんです、
と言ってしまえばとても簡単なのだけれど、
私がそれ自体を言ってしまうのは、
それはそれでとてもおかしいこと。
でもなぜだかどうしても私は、
クラシック音楽とはいつも距離をおいていたい。

生の良い音楽を聴くのはとてもいいことで、
他人の演奏を聴くことも、自分の演奏を聴くことも、
音楽をしていく上ではとてもためになることなので、
クラシック音楽を「聴かないこと」は、
ちっともかっこいいことではない、とわかっている。
でも私の中ではやっぱり、
クラシック音楽は自分から求めて聴きに行ったりするものではない。
それらを自ら求めて聴くと、
聴くためだけに足を運ぶと、私はとても苦しくなる。
やっぱり好きではないのだ。色々なことが色々な意味で。

でも今夜は久々に、ヴァディム・レーピンの、
チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を聴きにいく。
もちろん、シカゴ交響楽団との。

少しだけ良い無理もする。
矛盾もする。そんな日もたまにはあり。


*シカゴ交響楽団本拠地
Symphony Hall入口の写真